福音中心 →

「福音中心であるという事」とは、クリスチャンとノンクリスチャン両者へのすべての教会ミニストリーの中心に、福音メッセージを置くというミニストリー観を守ることです。そのためには、福音が私たちにはっきりと鮮やかに示される必要があります。ノンクリスチャンは、罪から離れ、キリストに信仰を置くようにと勧めを受けます。また、クリスチャンは、自分たちの人生の中で福音を信じきれていない部分(テトス2:11-14)において、罪から離れキリストに信仰を置くことで神のみ国において成長する(聖化)ようにと勧めを受けます。さらにクリスチャンは、人生とミニストリーのすべての側面において、福音のレンズという世界観を通して考え、福音を実践していくようにと教えられています(テモテ第二4:2、コロサイ3:16、マタイ16:18)。

ですから「福音中心であるという事」は、私たちがどのように礼拝を構成し、どのように人々に助言するかに影響します。また、どのように聖書の中心的メッセージを理解し、どのように聖書を教え、どのように神の人々の中に聖化の働きを見ていくか、ということに関わってきます。福音は保守主義でもリベラル主義でもありません。律法主義でも認可主義でもありません。宗教でも無宗教でもありません。なまぬるい中立の立場ですらありません。福音は全く違う次元のものなのです。恵みの福音は心を捉え、恵みを原動力として従うようにと私たちを解き放ちます。

神の卓越した恵み →

聖書は、すべてのものの源と終わりであり(ローマ11:36)、すべてをみ心に従い統治している(エペソ1:11)栄光に満ちた三位一体の神を示しています。私たちは改革された救済論、手短かに言うと「神が罪人を救う」ことを信じています。神は罪人を救いのために始めから終わりまで主導権をもって働いています。神の計り知れない恵みと栄光を示すために人々は救われるのです(エペソ1:3-6、ローマ9:11)。神の卓越した恵みによる救いは私たちをへりくだらせ、感謝で満たし、神を礼拝しすべての国々に神の恵みを分かち合いたいという思いへ駆り立てます(マタイ28:19)。 私たちは恵みのみを信じます。これは、キリストのみを土台とし、神の栄光のみのために、真理について唯一究極の決定権と権威を持つ聖書のみにより、信仰のみにより受け取られます。

神学的深さ →

私たちは神についての理解が必要最低限なままでは満足できません。聖書を通し、神について、魂を満足させる深い理解と知識を求めていきたいと思うのです。神学は不可欠です。しかし、目的もなく神学を学びたいとは思いません。私たちは神学を学ぶことで、神がどのような方なのかをさらに知っていきたいのです。

聖書に忠実なメッセージは、地域教会のいのちと健全さのために重要な役割を果たすと信じています。私たちのメッセージの目的は、神が人々に与える助言や勧めをもれなく伝えること、そして彼らがしっかりと成長した状態でイエスの前に出られるようにすることです。この目的を達成するための一番良い方法は、系統的な聖書の説明であると確信しています。系統的な聖書の説明では、聖書箇所を基にし、メッセージの主要ポイントが聖書箇所の主要ポイントとなります。このようなメッセージを通し、神の言葉がどのように人生を形作るのかを人々が知ることができます。トピックメッセージも時には助けとなり必要となりますが、教会の「普段の食事=定番」にはならないようにしています。トピックメッセージをする場合でも、主要ポイントは聖書の真理にはっきりと根ざしていることを示す必要があります。私たちは、すべての聖書箇所はキリストを指し示している、またはキリストにおいて完了していると信じています。そのため、すべてのメッセージはキリストが完成した働きへの信仰を明らかにし、促すものだと信じています。

生きた信仰 →

ペンテコステの日に聖霊が注がれて以来、神が神の民と共にいるという目的は新しい展開を迎えました(出エジプト34:14–16、レビ記26:12、ヨハネ14:16–17、使徒2:14–21)。ですから、私たちが重んずる信仰は、理論上のものだけではなく、毎日の生活の中で体験していくものなのです。私たちは今日における聖霊の働きを進んで求め、聖霊が私たちの間で働くことを望んでいます。私たちは、祈ること、聖書を読むこと、賛美、奉仕、捧げること、そして私たちの信仰が生き生きと成長していくために助けとなる霊的な訓練へと打ち込んでいきたいです。

  • 聖霊によって力を受けるとは、神によって命あるものとされ、私たちの内に神の霊が住んでいるということです。この霊によって私たちは「アバ、父よ」と叫びます。
  • 聖霊によって力を受け続けるとは、私たちを聖く変えていくことができる力が私たちの人生の中にあるということです。聖霊が内に働いているので、私たちは福音を信じ、肉の欲を拒否し、神のみ霊の実を結ぶことができます。
  • 聖霊による力づけは、教会を建て上げるために必要な賜物を私たちに与えます。聖書の中で教えられている賜物は今日も、教会を建て上げ、世界で福音を前進させるために与えられています。聖書を大切に敬い従うということは、賜物が継続的に与えられていることを信じるだけではなく、教会が建て上げられるために(使徒1:8、ガラテヤ5:16–18、コリント第一12:4–7)愛のうちに賜物を熱心に求めていくこと(コリント第一14:1)だと私たちは信じています。また、賜物が正しく使われていないことを真剣に捉え、重要でない問題のために分裂する事よりも、「さらに勝る道」としてお互いに愛し合い一致する事を求めています(コリント第一13)。
  • 私たちは聖霊により神との交わりの中で人生を生き、人生やミニストリーにおいて神の力に頼り、聖霊に満たされ続けることを求めています。

聖書的なリーダーシップ →

私たちの教会は、テモテ第一3章とテトス1章に従い、聖書的に適格な複数の男性の長老たちによって導かれています。イエス・キリストが教会のかしらとして統治する元で、長老たちは群れを導き、教会の教義を守り、教会を治めることに責任を持ちます(コロサイ1:18、エペソ4:11、テトス1:5)。長老チームにはリーダーがいますが、このリーダーには他の長老たちに対する組織上の権限はなく、チームの中でリーダーとしての役割を果たします。 教会の健全さは、その教会の長老たちの健全さに大きく依存するため、私たちは彼らを力づけつつ、新しい長老を探し求め、訓練することを目指します(使徒20:28、テモテ第二2:2)。

長老制によって導かれる教会は、長老たちによって最終的な決断が下されるという点において、会衆派教会との違いが見られます。長老たちの次に、任命を受けた執事、そして委任された女性執事が存在します。長老たちに必要とされる2つの資質: 教えることができること(テモテ第一 3:2)と教会を治めること(テモテ第一 3:5)は執事の責任に含まれません。長老たちが教えに専念できるように(使徒 6:1-7)、執事と女性執事は教会内外の様々なニーズのために仕えるため指名されています。長老たちは群れの面倒を見る責任を神に対して持っています。つまり、長老たちも群れの人々もいくつかのプロセスを通し、誰が教会のメンバーなのかを知る必要がある、ということを示します。

意義あるメンバーシップ →

教会メンバーは、洗礼を受けたクリスチャンで、確かな信仰告白をしている人に限定されます。メンバーは、自分たちが教会の健康と福音の成長に不可欠であることを理解しています。そして、キリストの体を築き上げるために愛のうちに真理(福音)を語り、神により与えられた賜物を用いることでからだに仕えることに努めます。また教会の訓戒にも同意をしています。教会の訓戒は福音の証しを守り、恵みをもって回復が必要な人や離れてしまった人を助けることを目的とし、教会生活の中で注意深く用いられます。定期的に主の聖餐も受け取ります。主の聖餐は、神の人々を結び合せるキリストの働きを思い起こすためのサクラメントです。信じる人々のためにイエスが祈った「一致」が、クリスチャンたちと教会の中で具体的に表されていくべきと私たちは信じています。

男性と女性を神のかたちとして造り、 神の目に平等な尊厳と価値を与えることが、神の栄光ある計画だったと私たちは信じています。また男性と女性は、クリスチャンの家庭や教会の中という安全な場所にて、それぞれに違い、互いを補い合い完全にする(補完性の)役割を与えられていると信じています(創世記1:26–28、エペソ5:22–33、テモテ第一 2:8–15)。 男性と女性がお互いから孤立して働いたとしたら、そこに補完性はありません。男女それぞれの役割が人類の中で神の姿を表すものなので、喜びと信仰のうちに尊ばれ追い求めるべきものだ、ということを理解し、男性女性の両者が同じチームのメンバーとして共に働きます。

都市の一新 →

私たちの住む街の隅々まで、福音が変化をもたらすことを望んでいます。人生のすべての領域において、クリスチャンが福音の示すことを実践しながらいきていけるよう、弟子訓練をすることも変化の一部です。また社会的正義を行う、信仰と仕事を一体化させる、他の教会や団体と共に働くことも含まれます。私たちの目指すところは、神の栄光のためにこの街の中で福音が広がり、文化的、社会的、霊的に街が新たになっていくことを見ることです。私たちは、1つの体である教会コミュニティーと、一人ひとりのメンバーが、特に以下のことにおいて福音の意図するところを生きていくために、手助けをしていくことに尽くします:

  1. 信仰と仕事:すべての人間は、神のかたちとして造られた働き人です。学業、育児、会社勤め、農業、どんな職業もそれは神を表すために与えられたチャンスなのです。私たちの人生のすべての面において福音が影響を及ぼすことを願っています。
  2. 憐れみと正義:社会的正義は福音自体ではありませんが、福音によって変えられた人は、他の人々のニーズに愛をもって仕えたいと心動かされます。クリスチャンたちがキリストの愛への応答として、他の人々にあわれみを届ける生き方をする手助けを目指します。
  3. 人間関係:福音が私たちの両親との接し方、子育てのやり方、夫または妻の愛し方、友情の持ち方を形作ります。私たちは、教会メンバーが人間関係の中で御国の新しい生き方を実践していくことを望んでいます。

宣教的なコミュニティー →

私たちはお互いを愛し、仕え合い、励まし合い、神にあって成長するために助け合う真のコミュニティーでありたいと願っています。同時に、福音中心とは単に福音を個人的に心に留めるだけではなく、喜びをもって熱心に分かち合うものだ、と気づく外向きのコミュニティーでありたいと願っています。イエスは、出て行ってあらゆる国の人々を弟子とするように命じました。ですから、私たちは下記の3つのこと:

  1. クリスチャンたち(伝道を通して)
  2. ミニストリーの働き手たち(弟子訓練を通して)
  3. 教会(教会開拓と活性化を通して):新約聖 書の中で1世紀の教会は、教会間で積極的に 頼り合っていたいたと証言しています(ヨハ ネ17:20-21、使徒16:4-5、コリント第一 11:16、ガラテヤ2:7-10)。

が増え、発展していく中で、福音が前進していくことに尽くします。