ブログ
イエスが息を引き取ったとき、一連の出来事が起こりました。 地上に闇が広がり、地震が起こり、死んだ聖人達の墓が開かれ、イエスが叫び声をあげました。そして... "神殿の幕が二つに裂かれた、 上から下まで” (マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)
「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。
私がクリスチャンになった時は悲しみの感情しかなく、喜びの感情がありませんでした。いつも心がどんよりと暗く重かったのを覚えています。喜びの感情を求めていましたが、最初の牧師からは「感じや感情ではなく、みことばの上に信仰を立てなさい」と言われ続けました。
KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。
私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。
020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。
それからの数ヶ月、私は神と教会に幻滅していくのを感じました。このような出来事があったという情報が様々な人の耳に届いていく中、裏切られたんだという思いが私を圧倒するようになり、この時初めて、それまでも耳にしていた牧師の妻の孤独というものに直面しました。外面は強くあろうとしましたが、心の中では「神さま、私をここから出してください!」と叫び声をあげていました。勢いを失い、開拓精神は折れてしまい、希望が私から消えていきました。
ここ数年、私はこの箇所に戻ることが何度もなんどもありました。私はかつて、ダン・マッカートニーが言う「熱心なクリスチャン」の一人でした。その「熱心なクリスチャン」とは、今のこの人生においてすべての病が癒され、罪が砕かれることを熱心に求めるのですが、自分がいる試練の中にも神の主権があると理解していない人です。自分が置かれている環境の中でコントロールを失った時や、計画していたことの中でも最も神聖だと思っていた計画が遮られた時、自分か悪魔を責めることは、私にとって簡単なことでした。その結果、私は外にある悪の力と戦うか、もしくは、内に敗北感を背負いこむようになりました。
私は落胆し、打ちのめされていました。福音を中心とした教会を立ち上げるため、ペンシルベニア州、スクラントン市へ引っ越したのですが、これほどまでにここが、霊的に石のように冷たく固い場所だとは思いも及びませんでした。社会的低迷がこの地域を包み込んでいました。かつては北東部炭鉱地帯の中心地として栄えたものの、そのような繁栄の時代はとうに過ぎ去っていました。アメリカンドリームは1950年代にスクラントンで朽ち果てたと言えるほどでした。このさびれた山あいの町に住む人々は失望感に満ちていました。学校、政治家、企業、そして教会さえも、彼らを見捨てたように思われました。
ミニストリーで用いられるには、キリストの品性を養う必要があります。キリストが血肉を持ち、父なる神を地上で示されたように、あなたも生活を通し、キリストを身に着なければなりません。キリストの栄光をミニストリーにもたらしましょう。ミニストリーにおいて、最も重要なのは人々との関わりではなく、人々とイエスとの関わりです。イエスとの関わりをもたらすよう、私たちは召されているのです。キリストを身に着、み言葉の真理を武器に取ることにより、このような任務を果たせるように、自分自身を備えましょう。
エノクという名の人物について、私たちは多くを知りません。聖書には、他の登場人物たちについて記されているような、見事な手柄や勝利した戦い、信仰により辿った道のりなど、彼の人生の詳細について、ほとんど記されていません。読者が知ることができるのは、彼はアダムとノアの間の7世代目で、父親はエレデ、息子は長寿で有名なメトシェラということだけです(創世記5章18-24節)。彼の目立たない人生(歴史的名声、聖書に残る記録という面から)にも関わらず、エノクは、あの有名な「信仰者の殿堂」の二番目に記されています(へブル11章)。
子どもたちが大きくなるにつれて、わが子と健康的な親子関係を持ち続けるためにどうアプローチしていくかを考える時、親が柔軟性と適応性を身につける必要があることを思わされます。子どもたちは成長過程において、時に適切ではない決断をしてしまうものです。それは、私たち誰にでもある ことであり、熟していく過 程で当然起こり得ることです。 神さまが私たちに語りかけてくださるように、私たちも親として、子どもたちの人生に語りかけていきましょう。