無条件の愛の子育て
子どもたちが大きくなるにつれて、わが子と良い親子関係を持ち続けるためにどうアプローチして行けばいいだろうと考える時、親が柔軟性と適応性を身につける必要があることを思わされます。子どもたちは成長過程において、誤った決断をしてしまうものです。それは、私たち誰にでもある ことであり、成熟していく過程で当然起こることです。神さまが私たちに語りかけてくださるように、私たちも親として、子どもたちに語りかけていきましょう。
神さまが私たちにより多くの間違いを犯させる、という事はありません。私たちは他の人が罪を犯すことができるようにしたりしません。 同じように、子どもたちが間違ったことをし続けたり、ダメージ になるような習慣を作ってしまったりするようなことに手を貸すべきではありませ ん。そうではなく、無条件の愛というものは、良くない決断をした時でも、崩れない愛の橋を、架け渡し続けることなのです。子どもが正しい考えに戻るときに、関係をより近いものにするのは、いつも愛なのです(詩篇103:8-9;ルカ15:11-32)。
親として私たちは子どもとの関係を本当に大切 にしているんだよ、というメーッセー ジを送り続けることができるでしょう。「あなたが何かをしてくれたからという理由で、私のあなたへの愛が増すことはないし、あなたが何かをしたからといって、あなたを愛さなくなることはないんだよ」と。神さまが私たちを追い求め、恵みを与え、正しい道に戻るこ とを熱心に待っていてくれる、そのように愛してくださっていることを、私たちが忘れないようにするのです。
自分の子どもが親からの愛と優しさに気づいていないとしても 、神さまは気づいてくださっていると、親である私たちは神さまを信頼します。親切さと気遣う態度を持ち続けることは、自分自身よりも他の人を大切にしていることを表し、またそれは、境界線というものは人を押しのけるためにあるのではないということを教えることになるでしょう。
子どもたちが成長するにつれて、瞬時に解決しようとする期待を調節することも必要になります。変化がすぐに現われる場合もありますし、何年もかかってやっと 変わることもあります。ですから、子どもの心を変えるのは私たちの仕事ではなく神さまの働きであることを、私たちは自分に思い起こさせるのです。私たちは、神さまが導くところについていく姿勢を持ち続け、祈り続け、神さまの働きを、神さまの時に、神さまにしてもらいます。
子どもたちのために日々祈ることは(子ども たちが大人になっても)、私たちの無条件の愛の実践だと言えるでしょう。(子どもに、私はあなたのために祈っている よ、と伝えるのも忘れないようにしましょう。 たとえ子どもがそれをバカらしいことだ なぁと思っても、 辛い時には、自分のために日々祈り求められている大きな力があると知って、なぐさめられたりするものです。)
無条件で愛するということは、自分の信じていることや決まりを無視して甘やかすということではありませんし、子どもが自分の選択したことの結果に責任を負わなくてもいいようにしてあげる、ということで もありません。ただ、その子の行動によって親の愛が 変わることはない、ということです。その子が何かをすると決めても、何かをしないと決めても、同じように愛することです。
イエスが息を引き取ったとき、一連の出来事が起こりました。 地上に闇が広がり、地震が起こり、死んだ聖人達の墓が開かれ、イエスが叫び声をあげました。そして... "神殿の幕が二つに裂かれた、 上から下まで” (マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)
「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。
私がクリスチャンになった時は悲しみの感情しかなく、喜びの感情がありませんでした。いつも心がどんよりと暗く重かったのを覚えています。喜びの感情を求めていましたが、最初の牧師からは「感じや感情ではなく、みことばの上に信仰を立てなさい」と言われ続けました。
KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。
私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。
020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。