無秩序な中間地点を生きる

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現在、新型コロナウイルスの世界的流行の中で、私たちは「無秩序な中間地点」(「前はこうだった」「次はこうなるだろう」のあいだの時)にいると言えるでしょう。数週間前まで、教会の日曜礼拝は「普通」に行われていましたが、現在はオンラインで礼拝を持っています。少し前まではハグして一緒に踊っていましたが、今週はオンラインでハイタッチをします。ダンスを踊っても、離れ離れです。つい最近まで、世界は将来に対して確信を持っていましたが、今では、まるで私たちの命綱かのようにトイレットペーパーを備蓄しています。

ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。ブラウンの見解について、聖書の教えに沿う箇所とそうではない箇所について述べるべきことは多くありますが、「仕えるリーダーシップ」の意味を理解するためのヒントをブラウンは与えているのではないかと思います。異議を唱える前に、彼女の見解から何を学ぶことができるのか考えてみましょう。

私たちはすでに「贖い」と「成就」の間の、無秩序で中途半端な時を生きています。そうではない、と考えるなら、自分自身を欺いていることになるでしょう。私たちは以前からずっと、無秩序な中間地点を生きてきたのです。しかし、新型コロナウイルスがその事実を鮮明にさせました。私はコーチとして、他の人たちが通っている先の見えない状況を共有してきました。しかし、皆と同じく、私も今の状況に圧倒され、飲み込まれそうになっています。

 
私たちはすでに「贖い」と「成就」のあいだの無秩序で中途半端な時を生きています。そうではない、と考えるなら、自分自身を欺いていることになるでしょう。私たちは以前からずっと、無秩序な中間地点にいたのです。
— ロジャー・ブレイ
 

私は、小さなアパートの寝室に7日間ほど隔離されている中でこの記事を書いています。今後さらに少なくても7日間はこの状態が続くでしょう。私が牧師の職を辞し、 City to Cityアジア・パシフィックのフルタイムのコーチ・カタリストになった時にはどうなるのか、まだ未知の世界です。

現在のように、どうしようもなく無秩序で中間地点にいる時、教会開拓者として、仕えるリーダーとして、ブラウンの提言通り「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序の中に居続けること」(つまりは状況を受け入れ、恐れを認め、適切な勇気を持って前に進むということ)は不可能のように思えます。しかし、私はそれを実践する方法があると考えています。

私たちの心を吟味することから始めてみましょう。下記の質問は、あなたの心の内で起こっていることへの警告かもしれません。

  • あなたが現在、ほとんどの時間を費やしていることは何でしょうか?


  • あなたの最も強い感情は何でしょうか?恐れ?怒り?不安?何かが私たちの愛するものを脅威にさらす時、私たちは強い感情で反応をします。 


  • あなたは何を失うことを恐れていますか? 

  • あなたが「これがあれば」と思っていることは何ですか?「もし______があれば、人生はよりよくなるのに」。 

  • 自分、他人、そして神から何を期待していますか?私たちが「~しなくてはならない」、または「~すべきだ」と思っていることは、しばしば、私たちの心が愛するものを示しています。


これらの質問の答えを、時間を割いてメモを取ってみましょう。

「心が愛するものを意志が選び、知性がそれを正当化する」という心の性質を知っているからこそ、まずは心に焦点を当てる質問に答えることから始めます。私たちの心の望みは、私たちが教会のリーダーとしての行動に深い影響を与えるのです。ストレスを感じる時、つまり競技場の時には特にその傾向が見られます。

私の願望、私の心が愛するものが「快適さ」であるなら、ごちゃごちゃとした中間地点を避け、物事をできるだけ快適な状態にし、無秩序な状態を回避しようとするでしょう。

新型コロナウイルス流行の中で、この「快適さ」への探求はどのような形で現れるでしょうか。それは、これまでのやり方通りの礼拝をオンラインで反復することかもしれません。弱みやもろさ、寛大さを必要とする会話を避けることかもしれません。この状況の中で、今までとは違う方法で物事にアプローチする必要があるのに、オープンにならず、興味を持たないことかもしれません。なんだかんだ言って、牧師や教会開拓者は、既存の役割を最も心地よく感じるからです。変化は心地の悪いものです。この筋書きでは、教会の慣習を神学に基づいて正当化することができます。しかし、実はただ「快適さ」への愛を守っているだけなのです。

最も助けを必要としている人々に共感して接することができないことも、心が「快適さ」を愛している事実を示しているのかもしれません。快適さを失うことに圧倒されて恐れている時、私たちリーダーは、人々が本当に何を必要としているのかということに対して「弱みを受け入れ、好奇心を持つ」代わりに、彼らが何を必要としているのかを決めようとしてしまうことがあります。目の前の人は寄りかかって泣きたいのに、トイレットペーパーを分けてあげようとしているかもしれません。

よくある、もう一つの課題は、まるでモーセが紅海を通って人々を導いたように、無秩序な環境の中で、勇敢に行動するような救世主として見られたいというリーダーの願望です。しかし、モーセとは違い、私たちは恐れがないフリをしているのかもしれません。無秩序な中間地点を突っ走り、いずれそこを抜け出せると信じているかもしれません。しかし、次に待ち構えているのは荒野なのです。また、もしかしたら、私たちはオンライン上で存在感を出したいと願うかもしれませんが、人々を牧会し、弟子訓練をし、あわれみをもって行動することをおろそかにしているのかもしれません。私たちが物事を解決するために費やす気力と労力自体が、無秩序な環境からくる不明瞭さを受け入れることができない、という事実を指し示しているのかもしれません。

 
私たちは恐れがないフリをしているのかもしれません。無秩序な中間地点を突っ走り、いずれそこを抜け出せると信じているかもしれません。しかし実際のところ、次に待ち構えているのは荒野なのです。
— ロジャー・ブレイ
 

私たちの反応がどうであれ、この無秩序な中間地点は、私たちのリーダーシップにおける隠れた願望や、誤った方向を向いている愛について吟味する機会を与えてくれるのではないでしょうか。また、私たちの心を露わにし、どのような部分がモーセに劣るのか、どのような部分がパロのかたくなな心と似ているのかを示してくれるかもしれません。

今、私たちが耳を貸すべき事実はこれらでしょう:これからの数週間、数か月にわたり、私たちはリーダーとして失敗をするであろう、ということ。私たちは自分の恐れや、勇敢でありたいという願望と苦戦することになる、ということ。そして、私たちは仕えるリーダーシップとして、不完全である、ということです。 

もしかしたら、私たちはこの無秩序な中間地点にいて、悔い改めるように呼びかけられているのかもしれません。そして「ある人」に、真の、より良いモーセに、重荷を引き渡し、私たち自身をゆだねるようにと召されているのかもしれません。この「ある人」は、ただ波の間を歩いたのではなく、波に命じた方。私たちの荒野の中へと進み、競技場に入って来た方。そして、私たちの無秩序な状態の中に入ってきた方。彼は、恐れると同時に勇敢である、ということがどんなことかを知っています。また彼は、弱さを受け入れることから逃げませんでした。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)。彼は、苦しみの中で好奇心を保ち続けました。「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます』」(マタイ27:45)。そして、彼は寛大さを保ち続けました。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』」(ルカ23:34)。

私たちは、ご自分の命を犠牲にしてでも、無秩序な中間地点で私たちのそばを離れない、このイエスに自分たちをゆだねるように召されているのです。

イエスは、無秩序な中間地点にあっても、唯一完全な仕えるリーダーなのです。彼の犠牲があるから私たちは悔い改め、赦しを受け入れ、彼にゆだねるようにと招かれているのです。世界にストレスと不安がはびこるこの時、イエスは次のことを思い出させてくださいます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)。

無秩序な中間地点で自分をイエスにゆだねるということは、私たちの魂に安らぎを得ることを学び、正確に荷重された荷を運び、彼の側を歩き、くびきを負うということです。

パウロは、これと似たようなことをテトスへの手紙で言っています。キリストにある神の恵みは私たちを救っただけでなく、私たちの心に従順を教えてくれるのです。

「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。  その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」(テトス2:11-12)。

今のような苦難に直面する時、神の恵みが私たちを教え、訓練し続けるのです。神の恵みが私たちの願望を正しく形成するように導き、私たちの心を捉えている間違った愛を拒否する勇気を持つことを教え続けてくれます。私たちは、聖霊によって希望を持ち、善を行い、安らぎを得る力を与えられています。結果として、私たちは、弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続けることができるようになるのです。これは私たちが何かをしたからではなく、イエスがすでに成し遂げたこと、そして今も続く働きのゆえになのです。

 

 
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著者について

ロジャー・ブレイは、 City to Cityアジア・パシフィックのコーチ・カタリストであり、オーストラリアのコーチ・ディレクターです。ロジャーは最近オーストラリアのシドニーにある、ニュータウン・アースキンビル聖公会で、四つの会衆を監督していたミニストリーを終えました。ミニストリーに35年間携わってきた経歴を持つロジャーは、教会開拓、植え替え、そして教会のリーダーシップの役割を担うリーダーと共に歩くことに多く関わってきました。

ロジャーは、牧師の妻を支援するプログラム、パラカレオに携わっている社会福祉士であるジェーンと結婚しています。 彼らには、既婚の子供が二人、そして、孫が一人います。

 

ロジャー・ブレイ