心に響く説教とは (パート1)
2020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
クリスチャンの世界では「心」という言葉が、実際はよくわからずに使われていることがあります。あまりにも頻繁に使われるので、「心」とは何か、と説明することすら必要ないと思われています。しかしそれを前提にすると、聖書から見た「心」という本来の理解はだんだんと失われていきます。実は聖書ではおよそ千回も使われている「心」という言葉は、私たちの行動の中心として捉えられているのです。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4:23)
そこで、ペテロは、イエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。 口にはいる物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることを知らないのですか。 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それが人を汚すのです。 悪い考え、殺人、淫らな思い、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらのものが、人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:15-20)
聖書が強調するのは、心とは何か、またクリスチャンとして他の経験にどう心がつながっているかを理解することです。いわゆる人類学的枠組み(人とは何かという研究)では、人の存在を心、意思、思考、身体、感情として捉えています。それぞれがどう関わりあうかよりも、各領域に注目し説明します。例えば、
身体は行動する。
思考は考え信じる。
意思は選び決断する。
感情は感じ表す。
しかしそれ以上に心をよく理解するためには、聖書にはどう書かれているか、心についての表現を見つけ、その背景全体を調べる必要があります。それは「心」そのものについてというよりも、心の機能について書かれている箇所です。愛、礼拝、欲求などがどう機能しているか聖書を調べると、人と心の関係について頻繁に触れられていることがわかります。人と心の機能がどう絡み合っているかを理解することは、心に届くような説教をするために非常に大切なのです。
トーマス・クランマーは、「心が愛するものを、意思が選び、思考が正当化する」と言っています。心が愛するものという部分は、心が誇るもの、安らぐもの、恐れるもの、欲するものなどに言い換えることもできます。クランマーは思考が意思を決めるとは捉えていません。むしろ思考は、意思が求めるものに囚われていて、その意思は心が求めるものに囚われていると言うのです。
そしてカタイ氏は、クランマーの考察を一歩前進させてこう言います。「心が欲するものは、意思が選び、思考が正当化し、身体が行動に移し、感情が快感を得る」。だからこそ、心に届くような説教が重要なのです。私たちは皆、人生のすべての場面で(どんな会話、決断、反応であっても)、意識的にあるいは無意識に、このプロセスを経験しています。心こそ見えない問題が潜む場所なのです。私たちはどんなもの、まさに神よりも、自分自身を愛する心をもって生まれたのです。自己満足、自己正当化、自己充足に飢え渇いています。だから実際のところ、自分自身をよく思えることならどんなものにも飛びつくのです。それでそんな自分自身から救われるために神の介入を求めるようになります。第一戒が 「あなたには、わたしの以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト20:3)であるのは何も偶然ではありません。
イエスは新約聖書でも同じ命令を繰り返しています。
イエスは彼に言われた。「あなたは心をつくし、いのちをつくし、知性をつくして、あなたの神、主を愛しなさい。」 これがいちばん大切な、第一のいましめである。(マタイ22:37-38)
ここでは、心が人生のどんな場面でも人が生きるための原動力であることが暗示されています。
残念ながら教会の歴史においては知性を過度に重視する時代がありました。「正しいことを正しい順番で教えれば、正しい結論に至る」と考えられていたのです。また、「まずは動いて正しく霊的な実践を行えば、他のすべてのもの変化する」と霊的な実践を強調した時代もありました。しかし、箴言4:23、マタイ15:19、ヤコブ1:14-15、4:1 などによれば、私たちはまず欲する存在であって、考える存在、行動する存在ではないのです。
それはまさに以下のカタイ氏の結論と同じです。「身体、思考、意思、感情、心の間には様々な関連が見られる。どれもそれだけで完全に独立した存在ではない。聖書的に言えば、心から他の領域には直線で繋がっていて、逆にそれらの領域から心へは点線で繋がっているようなものだ。」つまり、自分たちが選ぶ習慣、礼拝様式、霊的実践は多くの場合、心の欲求の表れなのです。行動から心が変えられることよりも、心にあるものが直接行動として表れることのほうが起こりやすいのです。
パート2では、説教の適用として、どのように心の問題に目を向けるか、以下の質問を通して考えることにします。「心に欲求があると、具体的な行動を起こすことはなぜそれほど難しいのか」
著者 — デイミアン・グレートリー
デイミアンは詩子と結婚しており、共に英国のリージェンツ神学校で学んだ。彼らは若い頃からミニストリーに携わっており、福音を通して霊的、社会的、そして文化的な刷新が自分自身、家族、そして街にもたらされるため、よく整えられた次世代の教会開拓者を見たいという思いがある。