心に響く説教とは (パート2)

 

2020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。

 

 
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クリスチャンの世界では「心」という言葉が、実際はよくわからずに使われていることがあります。あまりにも頻繁に使われるので、「心」とは何か、と説明することすら必要ないと思わパート1では、人類学の基本枠組みから、その人の心が意思、思考、身体、感情に与える影響を大まかに見てみました。そして説教に適用するため、アンドリュー・カタイ氏の以下の引用に注目しました。「心が欲するものは、意思が選び、思考が正当化し、身体が行動に移し、感情が快感を得る」

このように表現したのは何もカタイが初めてではありません。アウグスティヌスもまた、心の欲求と行動や感情はつながっていることを、以下のように表現しています。

  • 何かいいものを期待する愛は、欲求

  • 何かいいものとして今経験する愛は、喜び

  • 何か悪いものを予想する愛は、恐れ

  • 何か悪いものとして今経験する愛は、悲しみ

私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。

これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。

1. 説教の適用では、心の問題として以下のように問いかけます。「私たちの心が何かを欲しがると、なぜ他のことがしづらくなるのだろう?」  

説教の適用として、例えば聴衆に喜んで献金するように勧め、家計管理の方法にアドバイスを与えることはできるでしょう。しかしこれは聴衆の意思にも思考にも働きかけていません。伝えているのは、献金とは何かを教え、聴衆に理解させ、そのように行動するよう促すメッセージです。 その前提には何があるでしょうか。ほとんどの聴衆が、自らすすんで気前よく捧げるとはどういうことかわかっていないということでしょうか。それともよく理解しているというものでしょうか。 

 喜んで多くの献金ができるように促すには、もっと意思の力に働きかけることが必要だと言う人もいます。しかし、説教者として求められているのは、心のもっと奥深いレベルで何が起きているかに聴衆の注意を向けさせることです。もしいのちの泉が心から湧くなら、  (箴言4:23、マタイ15:19、 ヤコブ 1:14-15、4:1)、 本当の変革はどんなものでも、まずは心が変えられるところから始まるからです。ですから、以下のように言うことができます。「自分の心に注意を向けてみてください。なぜ自分にとって、献金をするのがそれほど難しいのでしょう?」説教の適用を質問に変えると、福音を具体的な課題に当てはめることができます。

2. どうしたらそのような人たちに福音を語れるでしょうか。

 なかなか献金したがらない人には、以下のような理由が考えられます。

  • 自身が経済的困難にあると考えている。

  • 経済的に成功したいと思っている。

  • 快適なライフスタイルを優先させている。

どのケースも心の問題が反映されています。使徒パウロが人々に献金を求める時、ほかの人よりも経済的に恵まれていることに注目しませんでした。(Ⅱコリント8~9) コリント人の中には比較的裕福な者もいましたが、そうであっても、パウロは彼らに福音を指し示したのです。

心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」 (Ⅱコリント 8:9). 

パウロは読者の心に語りかけ、イエス・キリストがすでに達成したことに目を止めるよう励ましています。貧しくなった(十字架で全てを手放した)イエスによって自分が富む者になった(決して奪われることのない霊的祝福の全てを与えられた)と心底気づいたら、変えられたい、そして与えたいという気持ちが内側から溢れるだろうと考えていたのでしょう。これは、献金という外的変化は心が変えられるという内的な変化の結果として現われるという見方です。

もちろん意思や思考に訴えて、もっと献金するように励ますこともできます。でもそれだけでは、キリストの愛以外のもので心が満たされている状態だとも言えるのです。

  • 「もっと献金したら、牧師からよく思われるだろう」

  • 「もっと献金すれば、自分自身をいい人間だと認められるだろう」

  • 「もっと忠実に献金すれば、神さまは祈りを聞いてクリスチャンの夫を与えてくれるだろう」

以上のような場合、表面上の行動は変わるかもしれません。でも説教者の意図とは違って、聴衆がイエス・キリスト以外のものに心を向けるのを認めてしまうことになります。神は個人の目的のための手段になり、彼らが喜んで献金するのは神のためではなく、自分自身のためになってしまうのです。

徹底的に惜しみなく与える無条件の神の愛だけが、人の心に衝撃を与えます。それが、聖書の言う「献身(献金)」なのです。

 

 

著者 — デイミアン・グレートリー

デイミアンは詩子と結婚しており、共に英国のリージェンツ神学校で学んだ。彼らは若い頃からミニストリーに携わっており、福音を通して霊的、社会的、そして文化的な刷新が自分自身、家族、そして街にもたらされるため、よく整えられた次世代の教会開拓者を見たいという思いがある。