グレイスシティーの新しい長老より
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
クリスチャンになったばかりの頃、私は多くの悩みを抱え、常に自分の価値について、時には救いについてさえも疑いを持っていました。当時、私にとって「恵み」は単なる言葉で意味をなさず、理解をしていませんでした。また、何らかの形で神に仕えたいと思っていましたが、神がこんな私を用いるとは思えず、はじめからあきらめて教会の後ろの方に座っているだけでした。日曜日は、神に挨拶して帰りました。
「私のような罪深い、ダメな人間が、良い影響を与えるクリスチャンになれるはずがない。なぜ神は、壊れた人間を欲しがるのだろう?」と思っていました。
また、とても霊的で、素晴らしい人生を送っているように見えるリーダーや牧師たちを目にする度に、心が折れていました。クリスチャンは彼らのようにあるべきだ、と思いましたが、私はこの人たちと全く違います。まず、自分の性格を劇的に変えなければ、キリストに従うことは無理に思えました。しかし、自分の性格を変えることは不可能ですし、正直、そうしたくもありませんでした。
2、3年後、多くの友人がクリスチャンになりました。私は彼らに励まされ、葛藤の中で助けられました。そして、ある教会と出会いました。その教会の牧師は、私の問題行動にもかかわらず、決して私を見放さず、音楽の能力を使って教会に仕えるように励ましてくれました。
この間に、神の恵みと十字架が、自分のすべての罪に対して十分過ぎることを理解するようになりました。キリストは決して私を見放さず、見捨てないということを実感しました。また、クリスチャン=救われた人、というだけではなく、キリストがクリスチャンを用いて他の人々を救うこと、私のように最も弱い者たちを通して働き、その愛の深さと力の大きさを示してくださることを学びました。
私の性格も神のデザインであり、私の人生における神の計画の一部であることも学びました。神は私たちを、世間で言う良い人や成功者にさせるために救うのではありません。神はすべての人、すべての性格タイプ、個性を救い、聖めてくださいます。私たちは教会として共に、神の無限のご性質を表すことができるようになるのです。
私が日本に来た時、同じような疑問を抱いている人がいることを知りました。教会の人たちをケアしたい、守りたいという思いが芽生えたのもこの頃です。その思いは、年々強くなりました。
恵み、福音、神の愛と力について学べば学ぶほど、私はこのことを伝え、これらの真理を隠したり、混乱をもたらすものから教会を守りたい、と思うようになりました。
これが、クリスチャンとして、そして今、長老としての私の情熱です。役に立たないクリスチャン、神から離れすぎたクリスチャン、神に必要とされていない、求められていないクリスチャンなど存在しない、と示すことができるように祈っています。
長老になることで、私が素晴らしいクリスチャンになるわけではありません。神の驚くべき恵みが表されるのみです。 私はまだ壊れた人間、常に学ぶことがあり、しばしばクリスチャン生活を送るのに葛藤している人間です。しかし、その不完全さの中で、私たちを救うだけでなく、私たちを変え、人々に仕える力を与えてくださる神の強さが表わされるのです。
著者 — Greg Brennan
イエスが息を引き取ったとき、一連の出来事が起こりました。 地上に闇が広がり、地震が起こり、死んだ聖人達の墓が開かれ、イエスが叫び声をあげました。そして... "神殿の幕が二つに裂かれた、 上から下まで” (マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)
「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。
私がクリスチャンになった時は悲しみの感情しかなく、喜びの感情がありませんでした。いつも心がどんよりと暗く重かったのを覚えています。喜びの感情を求めていましたが、最初の牧師からは「感じや感情ではなく、みことばの上に信仰を立てなさい」と言われ続けました。
KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。
私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。
020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。