主である神はあなたがたの内にいる

 
 

「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。私たちのすべてにおいて福音中心主義を重視するあまり(勿論それは当然そうあるべきなのですが)、私たちは時として『神殿の幕が破れた』(マタイ27:51)ことが私たちにもたらす利点を見落としてしまうことがあります。

 

「主の大いなる日が近い」と書いたのは預言者ゼパニアでした(1:14)。そして彼は次のように書いています。それは激しい怒りの時であり(1:15)、罪に対する裁きの訪れ(1:17)、その結果、神はその民のただ中におられるようになる (3:17)。この予言が書かれたのはまず第一にユダ王国の人々に向けてでした。この国の民は、主の御名を呼び求める礼拝者の共同体となること(3:8-10)を目指してました。それは「恥じることのない」そして「へりくだった、貧しい民」であり、主のために信仰に留まったもの達です。(3:11-12)ゼパニアは彼の予言の終盤にこう述べています:「主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。その日、エルサレムは次のように言われる。’シオンよ、恐れるな。気力を失うな。」(3:15-16) 

いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります
— A.W. Tozer

私たちは(新約聖書の時代に生きる者として)与えられている特権的な立場を用いて、ユダ王国を越えた先にいるイエスに目を向けます。彼の復活の時、天上ではこの知らせをラッパを鳴らして世界中の罪人たちに伝えました。イスラエルの「真の王」であるイエス・キリストに避難しそして彼を拠り所とする者は、誰でもは神の怒りから解放され、その憐れを受ける対象なのです。しかし私たちの中でも、このゼパニヤの言葉を聞いて違和感を覚える人もいるでしょう:「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(3:17) 

主である神はあなたがたの内にいる

ユダ族は、何度も何度も失敗を繰り返しました。何度も何度も、彼らは神である主が彼らと共におられたという事実を思い知らされる必要がありました。

旧約聖書にて、世界が創造された時、神はアダムとエバと共に歩まれました。そしてイスラエル人を奴隷から救い出した後に、神は雲の柱の形、また火の柱を通して彼らの内に留まりました。同様に幕屋と神殿の内に臨在することで神はその民と共におりました。新約聖書においては神は受肉され、人となり私たちの間に住みました。インマヌエル – その意味するところは 「私たちと共におられる神」(マタイ1:23)。最後にイエスは天に昇られ、その御座に着かれ、天の父の右側におられます。私たちから離れてしまったように思えましたが、彼が次にしたことは御自身の聖霊を送ってくださることで、今も神は生きて私たちの内に宿っているのです。

私は教会開拓を始めて8年目の時に、燃え尽き症候群に直面していました。そんな中で私は「牧師のためのサポート」についてググりながら必死で助けを探していたら、数日後、いつの間にかカンザスシティのリトリートセンターにたどり着いていました。そこでカウンセラーの方が私の隣に座り、私を引き寄せて涙を流しました。彼女の胸元でリラックスするどころか、私の慎重なイギリス人の性質がかえって私を緊張させ、ぎこちなく感じていました。そこで”神は今どこにいると思いますか?”と質問されました。あまりの居心地の悪さに答えられないでいると、彼女はぎゅっと私の手を握って言いました。「神は今、このソファに座っているあなたの隣にいますよ」

救いの勇士

ゼパニヤは、私たちと共にいてくださる方は「救いの勇士」であり、救う力のある方(3:17)であると説明しています。私たちは、罪と死に対する勝利を得るために何もしませんでした。私たちのために代わりに戦ってくださり、そして勝利を勝ち取ったのは、唯一、イエスだけなのです。神が持つその人々に対する「愛」は、その愛情の対象のために行動する力がない、ただソフトで感傷的な好きだという感情ではありません。この「力ある者」とは「神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らない」方です。(申命記10:17)

教会の歴史の中で、神は弱さを持つ息子たち、娘達を探し出し、救い、そして喜ばれてきました。私たちが罪の内にあったときに、キリストはそんな私たちのために死んでくださいました。弱さを持つ息子や娘たちは、自分の重荷をあえてとイエスの足元へ投げ出します。それは弱さを持つ息子や娘は、自分にはこれ以上強い者として振る舞う演技を続ける体力がないことを認識しているからです。

彼は歓喜してあなたのことを喜ぶ

神が、ご自身の被造物である私たちから喜びを得られる方であることは、とても意義深いことです。しかし、同時に私たちの存在が神に恍惚な気持ちや経験を感じさせる、ということは私達には理解が難しく、少し困惑するようなことでもあります。彼らの罪を赦し、義とされた神の民に対する喜びは、高らかな歌声で現されます(3:17)。それは彼らユダ族の歌でも、私の歌う歌でもなく、主のが歌う歌なのです。

成長した3人の息子を持つ親として、私が彼らを見て、歓喜をあげて嬉しそうにしていると、息子たちがそのことに気がついて恥ずかしそうにすることがあります。多くの親が経験することだと思いますが、父親である私が彼らを抱きしめようとした瞬間に彼らが部屋から逃げるように出ていく様になった時期を覚えています。もし私が彼らのことを喜んで、そのことを大声で歌い上げるようなことがあれば、彼らはきっとイヤホンを即座に耳に装着するでしょう。私自身と神との間にある父と子としての関係性も実はそれほど変わりません。神から離れるために、時折もじもじしながら部屋から出ていく様なことももちろんありますが、大抵は自分の働きに集中して、自分を忙しく保つことでとの方が多いです。私は自分を忙しくし、自分を強い者だと思うことで、父の歌が聞こえないようにしているのです。

彼はその愛によって私たちを静めます

神の愛によって与えられる静寂がなければ、私は必要以上に考えすぎてしまう傾向があります。私は頭の中で私が納得がいくまですべてのことを分析します。私は、混沌とした自分の心のうちで平和を保つためにそのようにしているのです。神の愛によって与えられる静寂がなければ、私は過度の警戒心を抱くようになります。私は、あらゆることを予測しようとします。先読みして起こりうるすべての結果を考えることで自分にとって安全な感覚を生み出そうとしているのです。

皮肉なことですが、「考えすぎる」ことは、逆にとても危険なことです。神が私と共にいてくださることを信じていない、神様が私を救ってくださることを信じていない、というに信号を自分の心に送ってしまうのです。父の喜びから切り離された私は、どうしても自分が不十分だと感じてしまいます。父の高らかな歌声から切り離されると、私は感情的になり、過食に逃げ、結果減量することに悩まされます。

もしかしたら、あなたは周りに好かれようとする心配性で八方美人な人かもしれません、それか、自分にはできる、ということを証明するために常にキャリアを追い求めて試行錯誤しているかもしれません。もしかしたら、あなたは、ただ愛されること、そして既に十分な存在であることの意味を見失い、困惑した幼な子の様に感じているかもしれません。もしかして、あなたは自分を偽って行動することで精一杯なのではないでしょうか?もしかしたら、あなたはもう、主の恵みの中で安心したり、自分の失敗を認めることができないでいるのではないでしょうか?

もし、これらの説明のいずれかに共感する点があるのであれば、神の声を通して自分自身を再認識する良い機会だと思います。今こそ、神の歌声を聴くために、そして、神の歌声を認めるために、長く立ち止まる時なのです。主がいる場所はいつも変わりません -   あなたの内におられます。

「主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うなあなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」
— ゼパニア 3:15-17