聖書を読む時の楽しみ
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
神
人はよく「この箇所は私について何を語っているのか、また私の人生にどのように適用されるのか」と問いかけながら聖書に向き合います。これらは妥当な質問ですが、一番大切な質問ではありません。聖書は、私たちを中心に書かれているのではなく、神を中心に書かれているのです。記されたことばを通し、宇宙の創造主は、ご自身と、その力、目的を被造物である人間に明らかにしました。ですから、私たちの最初の質問は「この箇所は、神が誰であるかについて、何を明らかにしているか」であるべきです。
恵み
旧約聖書はすべて律法であり、新約聖書はすべて恵みであるという誤解がよくあります。しかし、聖書は旧新一貫して、永遠であり不変である神を描いています。神の律法と恵みは、永遠に組み合わさっているのです。神様の愛と裁きは、十字架で完全に一つとなりました。聖書を読む上で重要なのは、創世記から黙示録の中でこれらのテーマがどう展開していくかをたどること、そしてこれらのテーマがどのようにイエス・キリストという人物の中に集約されるかを理解することです。
チャレンジ
偶像崇拝の本質は、神をより自分たちのようにしたいと願うことです。しかし、神の道は、天が地よりも高いように、私たちの道よりもはるかに上にあります。私たちは、困難なことや不快なことを聖書の中で読んでも、驚いてはいけません。ティモシー・ケラーが言うように、「もし"神"がいつもあなたと同じ意見だとしたら、あなたは自分の理想像を崇拝しているに過ぎないかもしれません」。
美しさ
神は美しい方です。神が創造された宇宙も、神が霊感を与えたみことばも、その栄光を反映しています。神がみことばの大部分を道徳的な教えではなく、歴史的な物語や詩として記録することを選んだのは偶然ではありません。心や想像力、そして知性に訴えるようにみことばをデザインしたのです。
多様性
自然界では、美しさは多様性によって表現されます。聖書にも同じことが言えます。聖書は1500年以上にわたって書かれた、66巻からなる本の集まりです。聖霊により霊感を受けた人間の著者が、戦争の物語、愛の歌、嘆きの歌、祈り、手紙、回想録、まぼろしを書き記しました。それぞれの書は独自の声で語り、また聖書全体のメッセージにそれぞれユニークな側面を与えています。多様性を通して表現されたこの統一性を発見することは、聖書を読む楽しみの一つです。
統一性
どんな素晴らしい物語にも、中心となる筋書きがあります。脇筋があるかもしれませんが、主要なストーリーは読者を結論へと導きます。聖書の中心的なストーリーは、次のように要約されます。創造、堕落、贖い、回復です。人間の視点から見ると、それは園で始まり、十字架でクライマックスを迎え、新しいエルサレムで完結します。このストーリーは、聖書全体を通して展開されています。ある時は明確に、またある時は隠れているかのように、しかし常に存在しているのです。
福音
イエスは死からよみがえった後、律法、預言書、詩篇にご自身について書かれていることをすべて弟子たちに教えました。イエスは、聖書全体は自分について書かれていると主張しました。イエスが中心人物であり、ストーリーライン (創造、堕落、贖い、回復) の成就であることを理解すれば、これは完全に理にかなっています。ある箇所はインスピレーションを与え、またある箇所はチャレンジを与えます。しかし、福音のレンズを通して見ると、すべての聖句は、神の善良さ、知恵、美しさに私たちの目を開かせてくれます。
イエスが息を引き取ったとき、一連の出来事が起こりました。 地上に闇が広がり、地震が起こり、死んだ聖人達の墓が開かれ、イエスが叫び声をあげました。そして... "神殿の幕が二つに裂かれた、 上から下まで” (マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)
「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。
私がクリスチャンになった時は悲しみの感情しかなく、喜びの感情がありませんでした。いつも心がどんよりと暗く重かったのを覚えています。喜びの感情を求めていましたが、最初の牧師からは「感じや感情ではなく、みことばの上に信仰を立てなさい」と言われ続けました。
KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。
私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。
020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。