KGK 紹介
KGK 紹介
KGK(キリスト者学生会)を紹介する機会を与えてくださり感謝致します。KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
あるとき「自分のことがどうしようもなく嫌になる」というクリスチャンの女子学生がいました。「自分の罪深さ、性格を見ると、自分が本当に嫌いで、どうしても赦すことができない。」彼女はKGKでみことばを学ぶ中、神様が自分を愛してくださっているのに、自分がそれを否定していたことに気づかされ、KGKの仲間たちに祈ってもらうようになりました。何も変化もなかった半年後、友達にこの課題を分かち合ったとき、その友達が第一テサロニケ5章16~18節のみことばを開いて彼女のためにお祈りしました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」彼女はこのみことばを聴き、祈ってもらう中で不思議と「自分を赦せない」という気持ちが消えていきました。その日から1年以上経っても、以前のように「自分のことが赦せなくて仕方がない」という気持ちは無くなったのです。「神様が『いつも喜んでいなさい』と言われているので、自分のことが好きかどうかが良い意味でどうでも良くなった」のだと。神様が赦してくださるように自分を赦し、神様が愛してくださるように、自分も愛せるよう変えられたのです。
神様はみことばと祈りを中心とした人格的な交わりによって、今も若者たちの心を変えてくださっています。KGKを通して、学生たちの心が福音によって変えられ、神の恵みを心から喜ぶことができるようお祈りいただければ幸いです。
KGK東海地区主事
河野勇也
イエスが息を引き取ったとき、一連の出来事が起こりました。 地上に闇が広がり、地震が起こり、死んだ聖人達の墓が開かれ、イエスが叫び声をあげました。そして... "神殿の幕が二つに裂かれた、 上から下まで” (マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)
「神」という言葉は、それぞれの文化圏によって異なる意味を持つようになりました。それはキリスト教の豊かな歴史という遺産を持つ文化圏においても、人々は神を神話的で非人間的なものとして捉えています。このことについてA.W.トーザーは「いかなる宗教も、その宗教が掲げる’神’に対する考えを超えるほどに、偉大であったことはない。礼拝とは、礼拝する者が神に対して崇高もしくはそうではない考えを抱くことによって、純粋なもの、または卑しいものにもなります」 と述べています。
私がクリスチャンになった時は悲しみの感情しかなく、喜びの感情がありませんでした。いつも心がどんよりと暗く重かったのを覚えています。喜びの感情を求めていましたが、最初の牧師からは「感じや感情ではなく、みことばの上に信仰を立てなさい」と言われ続けました。
KGKではクリスチャンの大学生が自分が置かれた場所(学校、バイト先、家庭等)を神様が遣わしてくださった場所であること受け止め、福音にふさわしく生きていくことを励まし合っています。具体的には大学の中で聖書研究会や祈り会を行っています。みことばによって心を探られ、同世代だからこそ共感し合える悩みを分かち合い、祈り合っています。
聖書通読プランは素晴らしいものですが、その恩恵を受けるためには、聖霊が語っていることに心を合わせて聖書を読む必要があります。ここでは、聖書通読を喜びの発見に満ちたものにするための、いくつかのポイントを紹介します。
教会の長老になることは、大変な光栄であり、私に見合わない名誉です。自分には到底務まらない、うまく果たせないと自覚している職です。しかし同時に、神の恵みによって与えられ、恵みによって成り立っている職でもあります。この真理を信じ、理解を深めていくことが、私のクリスチャン生活の原動力であり、私が教会のリーダーシップ、そして長老の職を志すようになった理由の一つでもあります。
なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。
私たちは、何か取り上げられてもそれほど好きでないものなら、悲しいと思いません。逆にそれほど好きでないものをもらうと、嬉しくないのです。欲求や喜び、恐れや悲しみは、それぞれ愛の表れです。心に届く説教とは、聴衆の心に潜んでいる愛がどんな姿か、またその「愛」がどんな行動として現れるかを知ることから始まります。これをもとにカタイ氏は、ティモシー・ケラーが提案した、心に届く説教をするための実践的な方法を二つ紹介しています。
020年4月、RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)のポッドキャストシリーズ「コロナ時代の教会」、アンドリュー・カタイ氏(シティー ・トゥー・シティー・オーストラリアのCEO)へのインタビューからの抜粋要約。聴衆の心に響く説教とは、どんなものなのでしょう。聴衆が納得して前向きになるように語るには、どうすればいいのでしょう。経験豊かなカタイ氏の語りをもとにまとめました。
ブレネー・ブラウンは著書「思い切って導く勇気 (Dare to Lead)」の中で、今のような時は「競技場」に足を踏み入れるようだ、と表現しています。「競技場の時」とは、リーダーがリーダーシップについて重要な課題に直面する時のことです。リーダーが導かなくてはならない時であり、勇気と恐れが交差します。ブラウンはこのような状況に陥ったら、「弱みを受け入れ、好奇心と寛大さを保ち、無秩序な中間地点に居続ける」ことを強く勧めています。