先を見ていこう
人生には、自分が物語の中に生きているのではないだろうかと思う時があります。物語の途中では、物語の構成や登場人物の動機、物語の結末が、まだよくわかっていない状態です。そして、最後の章にきて、やっと、物語の中の様々なことは、そういうことだったのか、と思うのです。僕の友達には、我慢できずに最終章から本を読む人がいます。最後にどうなるかわかったら、リラックスして本を楽しむことができるそうです。物語の途中で、どんな大変な場面に出くわしても、最終的にどうなるか知っているから、大丈夫なのだそうです。神さまは私たちに、物語の最終章を読んでごらんと、言っています。それは、最後にどうなるかを私たちが知ることができるためです。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、すべての人の中で一番哀れな者です。1コリント15:19
イエスにある希望が、今のことだけにしか関係ないなら、本当に大切なことが何かわからなくなってしまうでしょう。自分にはこれがないと生きていけない、と思い込んでしまっているものを大事にしてしまい、それがなくなると、パニックになるでしょう。また、過ぎ去っていくと聖書が言っている、一時的な肉体的なことにしがみついてしまうでしょう。自分の成功や失敗を自分のアイデンティティーにしてしまうでしょう。人に褒められると舞い上がり、批判されると落ち込む自分になるでしょう。
黙示録5:2-4では、「巻き物を開いて封印を解くのにふさわしいものは誰か」と言っているのを見た、とあります。巻き物は、すべての人のための歴史を通しての神の計画であり、それは、完成した物語、お話し全部です。この黙示録を書いたヨハネは、幻をみて、この巻き物を開くにふさわしい人は誰もいないので、激しく泣くのです。ヨハネが見ている情景を想像してみましょう。そこには、聖霊がいます。信じることができるように、人の心を開く方、また、従順の人生を生きることができるように力をくれる方、聖霊がいます。また、そこには子羊がいます。神の子どもたちの救いのために苦しんだ十字架刑の跡が今もある、子羊がいます。そして、父なる神がいます。罪が入ったその時からずっと、その子どもたちのために贖いと回復を計画していた父なる神がいます。この3人に加えて、すべての造られたもの、すべての人々が、神の御座の周りに集まりました。その巻き物が開けられるのを待ちながら、歴史の中の出来事を理解するのを待ちながら、そのすべてを通して、神の計画がどのように働いていたのかを理解できるのを待ちながら。ちょうどその時、子羊であるイエスが御座へと進み、父の手から巻き物を取るのです。御座の周りに集まっていたものは全て、わぁっと賛美し始めるのです。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人を贖いました」(黙示録5:9)。
この人たちが永遠という場所で一緒に集まることができる、唯一の理由は、十字架で流されたイエスの血があるからです。イエスの血がなくては、私たちはどんな将来の希望も持つことができません。十字架なしには、神さまの御座の周りに集まる資格など手に入れることができる人は、私たちの誰にもいません。私たちの良い行いの中に、神の怒りをなだめることができるほどの良い行いはないのです。私たちが気づくべきことは、これです。人生の終わりにたどり着く時、こう賛美していません。「あなたは素敵な家を与えてくれました、良い仕事と完璧な子どもと、キャリアの成功をくれました、あなたは素晴らしい方です!」
この人生において、神さまがこれらのものを与えてくれたという人もいるかもしれません。そして、それを神さまに感謝することは、正しいことです。でも、この人生のすべてが終わったときに、永遠という中で、皆さんが神さまに感謝し賛美することは、このようなことではありません。幼稚園の園長だったとか、教会の牧師だったとか、気にする人はいないし、どんな車に乗っていたかとか、自分の子どもがどんな大学を卒業したか、そんなことを気にする人はいないでしょう。何が大事かというと、「神が勝利した!神が勝利した!私は罪から自由になった!」ということです。永遠の中では、神のすごさを喜ぶ、その邪魔になる物は何一つありません。死、病気、痛み、惨事もありません。そして、何よりも素晴らしいことに、私たちの心にも、周りの世界にも罪がありません。
では、これが、私たちの今の人生とどんな関係があるのでしょうか?へブル人への手紙は、クリスチャンでいるということがどれだけ素晴らしいことなのか、疑問を持ち始めたクリスチャンたちに宛てて書かれました。彼らはクリスチャンになったのですが、人生は全くうまくいっていませんでした。多くは迫害され、投獄され、死が目の前に迫っている人たちもいました。彼らは思い始めました。「私がクリスチャンになったときに期待していた希望や喜びや安全は、一体どこにあるんだろう」と。そこで、へブル人たちへの手紙を書いた筆者は、神の人をリストにして挙げていきます。へブル人のクリスチャンに語り、こう言います。「あなたたちは理解していない、男も女も、神の人は、決して完璧な人生を生きたわけではない。不確かさがある、そのような状況を、いつもみんな通ってきた。それでも、素晴らしい人生を生きることができた」と。
アブラハム - 不確かさに直面する(へブル11:8-16)
筆者はアブラハムの人生で、神が「立って行きなさい」と言われた時のことを書いています(へブル11:8)。アブラハムは、居心地の良いところにおり、将来は安定していると思っていました。しかし、神はアブラハムに現れ、アブラハムは、「どこに行くのかを知らないで、出ていきました。」(8節)多くの人はこう言います。「自分が人生で成功をおさめるかは、自分がどれだけ持っているか、何をするか、自分の人生の状況がどうか、それにかかっている。」もし、これを持っていたら、これを達成出来たら、そしたら人生がうまくいくだろうと信じています。キリスト教信仰を持つときに、こう問う人たちがいます。「キリスト教は自分にとって良いだろうか?神は、自分が願うことをしてくれるだろうか?神を十分に喜ばせることができたら、欲しいものを与えてくれるだろうか?」将来のことに関して、神さまの計画を信頼するのではなく、自分の計画を達成できるように神さまに助けを求めているのです。
アブラハムもイエスも、神によって不確かさと直面する場面に立たされました。イエスは、捕えられ、拷問を受け、死刑にされようとしていた、ちょうど、そのすべてが起こる前に、イエスは神のもとに来て頼みました。「お父さん、私はまさに拷問され殺されようとしています。だから、どうか、私を救い出してください」と。イエスの人生の中で、何もうまく行っていないときに、神さまに自分の状況を変えてくださいと頼みましたが、神はそれを拒みました。イエスがすごい方なのはなぜでしょう。彼が思う通りの人生を生きることができたからでしょうか?いいえ違います!イエスがすごい方なのは、このような厳しい決定的な瞬間に、父なる神さまを信頼して、「私の思いではなく、あなたの思いがなりますように」と、言うことができたからです。
私たちは人生の前半の20-40歳を、ああいうこと、こういうことが、人生に成功をもたらすだろうと、ある意味確信して過ごします。これだと思うキャリア、この人だと思う伴侶、このくらいの富、これだと思う子育て、などを集めて、これが正しい、適切だ、と思う状況になっていくようにと、忙しくします。しかし、40-60歳のどこかで、自分が求めていたように、これがいいと思う状況にならなかったということに気づくようになります。本当に私たちが必要としているのは、状況がどうであれ、神さまの計画を信頼することができる、そのような心だということに、気づくのです。
モーセ - 世の楽しみを捨てる(へブル11:24-26)
へブル人への手紙の筆者は、続けてモーセのことを書いています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(24-26節)。モーセは苦しむことを選ぶことができました。この人生、この瞬間にただある自分中心の喜びで人生を満たすことを拒んだのです。モーセは天の報いを楽しみにしていたので、キリストのゆえにそしりを受けることを選びました(25節)。
あなたが誰かに1万円を盗まれたとします。もし、あなたの銀行に何千万もの貯金があるとしたら、どのくらい落ち込みますか?もし、あなたの全財産が1万円だけで、誰かがそのお金を盗んだとしたら、どのくらい落ち込むと思いますか?このどちらのケースも、同じだけの金額を盗まれたわけですが、他に蓄えがあれば、それほど途方に暮れることはないでしょう。あなたは、あなたの報いとして、何に目を留めていますか?自分の評判、好感度、資金、容姿、そのようなものに目を留めていますか?それとも、永遠の報いでしょうか?
その人が何かを失うときに、その人が崩れてしまうようなことがあれば、その人がイエス以外の何かに希望を置いていたということに気づくことができます。しかし、希望が現在の状況ではなく、永遠の終着点としてみるなら、自分の評判、お金、成功や安心を、ポケットの中に入った小銭のように扱うようになるでしょう。自分の計画ではなく、神の永遠の計画に希望を置くとき、私たちは、天において本当の金が安全に保管されていると知ることができます。もし、神の永遠の計画から目を離してしまうなら、この人生だけがフォーカスとなり、神を無視するようになり、自分が安心、安全、平和や感謝を感じられるなら何でもするようになってしまうでしょう。
この人生の葛藤を避けるために、今の楽しみを追いかけていないでしょうか?若い容姿を保たなければならないと、焦っていませんか?他の人から受け入れられることや、褒められることを求めて必死になっていないでしょうか?自分が重要な存在だと感じるために立場や肩書にこだわっていませんか?親としてよくやっていると感じるために、子どもが良い成績をとることを求めていませんか?もし、あなたの幸せや希望を今という時に詰め込もうとしているなら、今日の苦しみに大きな打撃を食らうでしょう。もし、この人生に困難が少ないことが、あなたの喜びなのであれば、困難が来るときに葛藤するでしょう。何か困難が起こると、自分で何とかしようとするでしょう。
イエス - 苦しみに耐える(へブル12:1-3)
へブルの筆者は、次の章をこのように始めています。「こういうわけで、多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗をしのばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」(12:1-3)。
もし、へブル人への手紙を書いた人が「私たちの模範であるイエスから目を離さないでいなさい。先に行ってくれたのだから、さぁ、あなたもイエスと同じように生きなさい」と言っていたら、イエスはどの角度から見ても完璧だったので、僕にはイエスのようにはなれないと言わなければならなかったでしょう。しかし、良かったことに、筆者はそう言いませんでした。彼は、イエスが「信仰の創始者であり、完成者である」と言っています。イエスは、十字架の死というところまで完全に父に従い、模範としてだけでなく、私たちの代理人となったのです。イエスは私たちの模範として生きただけではありません。私たちのために生きてくれたのです。イエスが私たちのために従いました。私たちの代わりに、イエスが神の怒りをおさめてくれました。私たちがこの素晴らしい行いをしたら、神が祝福してくれる、というのが福音なのではなく、私たちが信仰によって受け取る完全な行いを、イエスがしてくれたということです。
あなたが、完全に神に受け入れられていると知るときに、また、自分が何をしたからとかではなく、ただ受け入れられているという事実を知るときに、あなたは、本当にホッとして休息し、疲れないようになります。あなたが完全に神に知られ、そして愛されているということを、あなたの心でよくわかると、失敗することを恐れる必要がなくなります。人からの称賛を得る必要がなくなります。自分を良く思えるように、一時的な快楽で人生を満たす必要がもはやなくなります。間違いを犯してしまうときに、アダムとエバのように隠れてしまうのではなく、神に向かって走っていくことができるようになります。自分の行いではなく、イエスが、あなたの信仰を完成させてくれると受け入れない限り、いつも人生は葛藤になるでしょう。神を喜ばせることに必死になったり、神さまに対して良くないことをしてしまったら隠れてしまったり、神さまにすごいと言ってもらおうと、自分の良い行いを誇るようになるでしょう。
使徒のルカは、弟子たちがどうやって信仰を成長させることができるかイエスにたずねたときのことを記録しています。イエスは、からし種ほどの信仰があれば、山を動かすことができると説明して答えました。あなたの信仰がどれだけか、ということが大切なのではなく、あなたが何に信仰を置いているかが重要だということを伝えようとしていました。自分のではなく、イエスの完全さの中に安らぐようになると、神の前に点数をかせぐ必要がなくなります。愛し返してくれるかわからなくても、人を愛するようになります。それは、イエス・キリストにあって、あなたが必要としているすべての愛と安心を得ているからです。また、神の気を引こうと必死になってではなく、ただお返ししたいという気持ちで教会に仕えるようになるでしょう。神の永遠の計画と、イエスの完全さに希望を置くときに、私たちは現在の状況にのみ込まれそうにならなくなり、この世の快楽や誘惑の中に自分の満足や慰めを見つけようとしなくなるでしょう。
信仰の創始者であり完成者であるイエスに、目を留めていきましょう!